2007年 09月 25日
便利になっているはずなのに |
いっぱいなくなっているものも多いように感じました。インターネットの講座など
▼answer
そうですねー同感です。ネット上の講座は、「便利」な例としてあげられていると思いますが。
野口悠紀雄センセイが、あちこちで「ネットワークは力である」と書いておられるメディア観は、それはそれで正解です。市民運動にも、生涯学習社会にも、ネットは強力な武器です。
そして、ことさらに、手紙はメールに、音楽はダウンロードへと置き換わってしまう「べき」だとは思いませんし、野口教授ふうにいえば、「効用がコストを上回る手段は、合理的に選択すればよい」とも思います。特に、海外の学術情報が郵送で送られてくるのを待つしかなかった時代に比べれば、ネットで電子雑誌も論文アブストラクトも読めてしまう今の環境は、研究者にとっては夢の世界です。
また、このサイトのようなFAQを公開することの意義も、それなりにあると思います(印刷して配布することもできますが、卒業生の目には触れませんしね)。
では、何が失われてしまったのか、皆さんなりに考えてみて下さい。
案外、映画もフィルム写真も郵便もレコードも、生き延びていますよ。僕はフィルムを入れてクソ重たいハッセルブラッドで写真を撮ることも、手紙をやりとりすることも、真空管アンプで音楽を聴くことも、恍惚となるほど楽しい。黒崎政男教授の心境です。
そんな僕が感じる・・・そして想像以上に深刻なのは、ケータイケール依存で失われた「ゆとり」でしょうか。
メールサーバーに届いているメールをPCで確認しに行く本来の電子メールを、メールサーバーの負担を投げ捨てて(もちろん、事業者のコスト削減のためです)、送信されたら即バケツリレーで「受信させてしまう」プッシュ型のメールサービスを導入したのが、電電公社のポケットベル、そして後のドコモのiモードでした。
いま各社が追随している携帯メールは、送った瞬間に届いているだろうと思わせることで、返信を急がせる強迫的心理をユーザーに植えつけ、実際「会話するような早打ちメール」を常態化させ、その結果トラフィックの急増→パケット課金ウハウハ・・・となる「儲かる構図」を、みごとに成功させているわけです。
つまり、ユーザーの側には、映画館でも電車内でもデート中でもウンコ中でも、いつ着信するかわからない「慢性的着信態勢」がすっかり定着したわけで、90分の授業中、電源を切っておくだけのことさえ不安でしかたない人も、皆さんの中にいるでしょう。
京大霊長類研究所の正高教授は『ケータイを持ったサル』(中公新書)で、携帯電話の普及は考える人間ではなく、反応する人間を増やしただけだと表現していますが、たしかに長い目で見ると不吉な予感もします。
本を読む行為でも、芸術を鑑賞する行為でも、講演や授業に耳を傾けるときでも、人と何か真剣に腹を割って話し合う場面でも、論文や音楽その他の創作を紡ぎ出す行為でも、「いつ別世界からの通信が割り込んでくるかわからない状況で、思考を持続することなどできない」はずです(でした、かな?)。
何かに没頭する時に、ときに微熱さえ伴ってトランス状態になる…そんな中で魂に響くような何かをつかんだ経験のある人なら、ここ一番の時間には、冷静に携帯の電源を切れるでしょう。
ところが、いま新幹線を運転中にメールを読み書きしている運転士がいる御時世ですから、皆さんの体を手術する医療スタッフの中に、着メロが気になって腕が鈍るトンデモドクター、トンデモナースがいても、不思議ではありませんねぇ・・・(笑)。
携帯メールが現代人から奪ったものは、静かに考えたり、映画や音楽に没頭したり、大事な人とじっくり語り合ったりする静かなゆとりではないかと思います。
あなたのために、心をこめて手紙を書いてくれる人だけ親友として大事にしておけば、よろしいんではないでしょうか?
▼answer
そうですねー同感です。ネット上の講座は、「便利」な例としてあげられていると思いますが。
野口悠紀雄センセイが、あちこちで「ネットワークは力である」と書いておられるメディア観は、それはそれで正解です。市民運動にも、生涯学習社会にも、ネットは強力な武器です。
そして、ことさらに、手紙はメールに、音楽はダウンロードへと置き換わってしまう「べき」だとは思いませんし、野口教授ふうにいえば、「効用がコストを上回る手段は、合理的に選択すればよい」とも思います。特に、海外の学術情報が郵送で送られてくるのを待つしかなかった時代に比べれば、ネットで電子雑誌も論文アブストラクトも読めてしまう今の環境は、研究者にとっては夢の世界です。
また、このサイトのようなFAQを公開することの意義も、それなりにあると思います(印刷して配布することもできますが、卒業生の目には触れませんしね)。
では、何が失われてしまったのか、皆さんなりに考えてみて下さい。
案外、映画もフィルム写真も郵便もレコードも、生き延びていますよ。僕はフィルムを入れてクソ重たいハッセルブラッドで写真を撮ることも、手紙をやりとりすることも、真空管アンプで音楽を聴くことも、恍惚となるほど楽しい。黒崎政男教授の心境です。
そんな僕が感じる・・・そして想像以上に深刻なのは、ケータイケール依存で失われた「ゆとり」でしょうか。
メールサーバーに届いているメールをPCで確認しに行く本来の電子メールを、メールサーバーの負担を投げ捨てて(もちろん、事業者のコスト削減のためです)、送信されたら即バケツリレーで「受信させてしまう」プッシュ型のメールサービスを導入したのが、電電公社のポケットベル、そして後のドコモのiモードでした。
いま各社が追随している携帯メールは、送った瞬間に届いているだろうと思わせることで、返信を急がせる強迫的心理をユーザーに植えつけ、実際「会話するような早打ちメール」を常態化させ、その結果トラフィックの急増→パケット課金ウハウハ・・・となる「儲かる構図」を、みごとに成功させているわけです。
つまり、ユーザーの側には、映画館でも電車内でもデート中でもウンコ中でも、いつ着信するかわからない「慢性的着信態勢」がすっかり定着したわけで、90分の授業中、電源を切っておくだけのことさえ不安でしかたない人も、皆さんの中にいるでしょう。
京大霊長類研究所の正高教授は『ケータイを持ったサル』(中公新書)で、携帯電話の普及は考える人間ではなく、反応する人間を増やしただけだと表現していますが、たしかに長い目で見ると不吉な予感もします。
本を読む行為でも、芸術を鑑賞する行為でも、講演や授業に耳を傾けるときでも、人と何か真剣に腹を割って話し合う場面でも、論文や音楽その他の創作を紡ぎ出す行為でも、「いつ別世界からの通信が割り込んでくるかわからない状況で、思考を持続することなどできない」はずです(でした、かな?)。
何かに没頭する時に、ときに微熱さえ伴ってトランス状態になる…そんな中で魂に響くような何かをつかんだ経験のある人なら、ここ一番の時間には、冷静に携帯の電源を切れるでしょう。
ところが、いま新幹線を運転中にメールを読み書きしている運転士がいる御時世ですから、皆さんの体を手術する医療スタッフの中に、着メロが気になって腕が鈍るトンデモドクター、トンデモナースがいても、不思議ではありませんねぇ・・・(笑)。
携帯メールが現代人から奪ったものは、静かに考えたり、映画や音楽に没頭したり、大事な人とじっくり語り合ったりする静かなゆとりではないかと思います。
あなたのために、心をこめて手紙を書いてくれる人だけ親友として大事にしておけば、よろしいんではないでしょうか?
by edsw
| 2007-09-25 04:10
| '07年PSWの卵に答える
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