というのも昭和時代の価値観であり、問題視すべきことかは自明ではないと思います。いわゆる共働きが日本より以前から一般的なアメリカ等において、児童の一人留守番は虐待とみなされるのが通常であり、必ずしも古典的価値観と解釈されるかは微妙である気もします。
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やがて平成世代がミレニアル世代の後輩や部下に何かを教える立場になったとき、平成おじさん(おばさん)は、「日本語が通じても話が通じない」ことを実感することでしょう。
世代間のコミュニケーション不全をなげく大人の愚痴は、古代エジプト文書にも書かれていたようですから、なにも日本のファスト風土だけで起きていることではない。どの時代も、未来も、世代間には溝があるものです。
郊外化論の文脈で話したのは、
①生産現場と消費現場の分離は戦後高度成長期の工業化・都市への人口集中の必然的な流れであったこと、
②それを都市住民、家業継承から解放された農山漁村出身者も歓迎したこと、
③政府は住宅ローンの鎖を国民に課し金融機関に安定財源を提供する持ち家政策を推進したこと、
④その結果、都心ではなく郊外の持ち家と都心の職場が遠くなる一方であること
が、夫婦の関係、親子の関係、近隣関係をどう変えていったか?という分析視点です。
①~④はまさに昭和の政策で、ほかに新卒一斉就職、(死語にはなったが)結婚・出産適齢期神話、終身雇用、年功序列昇進が加担して、昭和なライフサイクルが定着しています。
その功罪を検証しつつ、昭和でないライフコースを提示できるかは未知数です。そんなことは難しいから昭和に戻ろうとは毛頭思えませんが、年長者と若年者のコミュニケーション不全は、福祉・医療・教育それぞれの現場で、中年どころか三十代のスタッフがかかえている課題です。
コトは「話のしかた」というミクロな技術論ではなく、イノベーションをしながらの継承をどう実現するか?です。
かつては地域社会でだれともなく果たしてきた「大人とぶつかり、大人にもまれて一人前になる」社会化を、AI が担う時代です。
それでいいと思えば、厄介な年長者とつきあわずに仕事ができるでしょう。
そして自分が老いてきたとき、「おじさん、おばさん邪魔!」と産業廃棄物を処理したがるような世代と、「いつかは自分もそうなるかも」と気づく想像力をもつ世代が、8:2ぐらいの比率になっているかもしれないし、5:5かもしれません。
どんな社会に変えていくか?以外に、どう変わったとしても所与の社会に適応していく道もあるかと思いますが。
子供の一人留守番は、治安とのかねあいで、日本でも許される地域と許されない地域があるのも事実です。
やがて児童だけでの登下校も虐待とみなされる時代になるかもしれません。
子供の身の安全のために、学校と自宅の間に放課後等デイや学習塾、スポーツクラブ等に「所属」させる保護者もいるでしょう。いたしかたのない世相だとは思います。
こうして、子供は教師、インストラクター、指導員らの大人の管理下におかれ、大人が与えた遊びや学びを注入されてブロイラー化する。
動物にたとえる不謹慎をそしられるのは覚悟していますが、「放牧」される子供は、子供独自の世界をもち、そこには国があり掟があり、ときには「戦争」もある。
このような子供の世界は日本では自明でしたが、西欧では近世になってから「発見」されたことは、ルソーにとどまらず、社会史の研究者が指摘してきたとおりです。
一人で留守番をしながら、また一人で下校する途中で買い食いをしたり探検をしたりしながら、一定のリスクにさらされながら、昭和の(今も?)子供は成育してきたはずです。
ところが今は安全にお膳立てして指導員が常駐するプレイパークが全国各地にあり、その功績は否定しませんが、昭和の管理教育が地域社会に染み出してきているようにもみえる(個人の感想です)。
どころか、とっくに大人が緑地や川原より、見知らぬ人々の汗と排気に満ちたジムに金を払うことが運動なのだと自明視している。そのほうが、産業振興にもつながりますし。
でも、「お膳立ていらん」といえる数%の子供が、イノベーションを成し遂げるのではないかいな?とも思います。
子供に買い与えるなら、ゲーム機よりテントがいい。暴論ですけど。